2008年4月20日(復活節第5主日)
新しい年度の歩みが、主の御祝福とともにありますように。
きょうは、マタイ19:13-26をお開き頂いて、ご一緒に主のみ言葉を学びましょう。
まず、13-15節までの段落は、主イエスが幼な子の上に祝福のみ手を置かれた場面です。
これに対し、16節以下は、13-15節の段落と対照的に主イエスの祝福とお会いできなかった物語です。16節は、ひとりの人の主イエスに対する質問から始っています。
この質問の背景には、ユダヤ教の黙示文学が影響しています。即ち、ユダヤ教の黙示文学の考え方のひとつは、詩篇90篇(4-6節、10節をお読み下さい。)などに典型的に出ていますように、この世のつかの間の命に対して、次の来るべき世においては死後の命にあずかりたいばかりか、現世においてもずっと続くような幸い豊かな命と日々を生きていきたいと言うものでありました。
16節のこの人も主イエスに近寄り死後の命にあずかりたいばかりか幸い豊かな命と日々をずっと生きていきたいが、そのためにはどんなよいことをしたらよいでしょうかと尋ねました。
主イエスは、17節で、
と言われています。「戒めを守れ」と言ってもユダヤ教には多くの戒めがあるので、18節でこの人は、「どの戒めを守ることが大切なのですか」と尋ねました。
主イエスは、答えとして、18節以下で十戒の戒め(出エジプト記20章)の後半部を引用されています。これに対し、この人は、主イエスの守れと言われる戒めは、全部守ってきましたと答えます(20節)。言わば、この人は真面目を絵に描いたようなユダヤ教徒でした。
しかし、この人は、後に(22節ですが)、「資産をたくさんもっていた」とあるにも拘らず、かつ真面目な人ではあったが、そのことも、20節に「ほかに何が足りないでしょうか」と主イエスに再質問しているように、これさえもっていればずっと安心して幸せに暮らしていく根拠とはなり得なかったのでした。こうした経緯をシラ書31章(新共同訳にあり。1-2節、6-7節)には、ものの見事に描かれていますので、引用します。
さて、このようにして、主イエスに質問した「資産をたくさんもっている」この人は、主イエスとは、とうとうお会いできなかったのであります(22節)。しかし、主イエスの弟子たちは、自分たちは、資産家のこの人とは違って、たくさん資産をもっていないので、資産が返って重荷や罠ともならず、主イエスの祝福にも与り、又ずっと続く幸せなよき日々を送れますよね、とは言っていないのです。弟子たちは、弟子たちなりに神の国に入るには、富んでいて、難しいことを知っていましたし、又小さな群れとして10:23にあるように追われるような日々を送っていたのでした。このことを如実に語っているのが25節です。
この弟子たちの姿は、わたしたちの姿でもあります。やはりわたしたちとて、自分たちなりに富んでいて、又かつ神の国の祝福に与ることの難しさを覚える者です。(23-24節)又わたしたちは、弟子たちと同じように、又資産家と同じように追われる日々を送っていて、ずっと続くような幸いの拠り所など見い出せないのが、わたしたちのありのままの姿です。
さて、主イエスは、25節の弟子たちの問いに対して、26節で、
と答えられます。この26節の主イエスの言葉は、端的に言えば、救いや祝福は人間からくるのではなく、神からくると言うことです。
17節には、主イエスの資産家の問いに対する答えの中に、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか」と言う言葉があります。これは、資産家が、主イエスが救い主であることにつまずいていて知らないと言うことです。又、同じく17節の主イエスの答えの中に、「よいかたはただひとりである」と言う言葉があります。これは、この資産家は、主イエスを救い主として送られ、祝福と幸いのつくり主である神を知らないと言うことです。
コリント書K 10:17には、「誇るものは主を誇れ」とありますが、わたしたちは主イエスが祝福される幼な子のように、主イエスを救い主として送り、祝福と幸いのつくり主であられる神を、誇りとして、主のつくられる祝福と幸いとともに新しい年度をさわやかに力強く生きていきたいのであります。
「神よ。主イエス・キリストを送って下さった祝福の主よ。
この世の人間のつくったものに信頼を置くのではなく、
よき方であられ、主イエスを祝福の主として送って下さった、
ただ、あなたにのみ信頼を置いてこの新しい年度もすこやかに明るく進ませて下さい。
主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」