2008年3月16日(四旬節第6主日・受難週)
主イエスの十字架を覚える週となりました。主の十字架を仰ぎつつ、主の御言葉を学びましょう。
きょうは、マタイ18:10-14です。この段落の初め(10節)と終わり(14節)に、「これらの小さい者のひとり」と言う言葉が出てきます。即ち、きょうの段落は、形式上の外枠として、又内容上のテーマとして、「これらの小さい者のひとり」が強調されています。
さて、きょうのテーマである「これらの小さい者(のひとり)」とは、主イエスの十二弟子ばかりだはなく、広い意味で主イエスの御言葉に従う者たちのことです。当時はユダヤ教の勢力が大きく強く、キリスト教とは使徒行伝などにあるように、家で集会を開くようなほんの小さな一握りの集まりでした。これまでの歴史は大きく強い勢力が正しいとされ、小さく弱い集団は片隅に追いやられた生活を強いられたのでした。つまり、日本人はこうした経緯を「寄らば大樹の陰」と言ってきました。
今、日本でも中国でも親の意識を調べてみると、子供には失業やリストラの心配のない職業とか、安定した大きな企業に入ってほしいと言う願いが強いと言われています。小さなものと言うのは、どこか不安定なところがあって人々は敬遠しがちです。
さて、主イエスは、きょうのテーマである「これらの小さい者(のひとり)」のあり様を、12-13節で「迷い出た一匹の羊」に例えられました。12-13節では、原文で「迷い出た」が三回出てきます。これらの「迷い出た」とは、頼るべきものもなく、支えもなく、大きな不安を抱えながら生きていく者と言うことです。
「文学座」を担ってこられた方に女優の杉村春子さんと言う方がおられます。杉村春子さんは、「文学座」で今より少し前の日本の歴史ですが、「女の一生」と言う劇で、10~60歳台までの主人公の生涯をひとりで演じ続けられました。その中の有名なセリフのひとつは、「これまでずっと苦労続きで自分は何のために生きてきたのだろうね」と言うものがあります。
わたしたちが生きていることとはそう言うこと、又そう思うことがあるのではないでしょうか。ずっと苦労続きとか、ずっと不安を抱えたままとか。日本では、寄らば大樹の陰とは言うが、しかし頼るべきあてもなく、又何の支えもなく、明るく見渡せるような明日や社会になる訳ではないと思うこともあります。
こうしたことが、12~13節で主イエスの言われる「迷い出た一匹の羊」と言うことです。そして、主イエスは、12~13節でご自分を羊飼いに例えて、羊飼いは「迷い出た一匹の羊」を捜しに出かけないであろうかと言われます。13節の「見つける」とは、必ず見つかるとは限らない中で、羊飼いは迷い出た一匹の羊を四方八方捜して、必ず見つけ出して救うと言うことです。
即ち、主イエスは、12~13節の例えを用いて、ご自分はよき羊飼いとして、当時の一握りの小さな集団にしかすぎない主イエスの御言葉に従う者たちを、迷い出た羊のように不安を抱えたまま生きているであろうが、必ず探し出して救うであろうと言われるのです。
旧約聖書には、神がよき羊飼いであられることが良く出てきます(詩篇23篇、イザヤ書40:11など)。その中からエゼキエル34:11-16を読んでみましょう。
神がよき羊飼いであられることは、14節では、「天にいますあなたがたの父」と言われます。即ち、10節の「天にいますわたしの(主イエスの)父」を、4節では、言いかえて「あなたがたの父」と言いあらわしています。「あなたがたの父」であられる神は、小さな者のそして迷い出た一匹の羊のような、又不安と労苦をずっと抱えたまま生きていくかもしれないあなたがたのよき羊飼いであられると言うことです。そして、このこと、即ち小さな者であるわたしたちのよき羊飼いであられることを示して下さったのは、わたしたちのために労苦をいとわれない十字架の主イエス・キリストです。神の送られた主イエス・キリストこそ、わたしたちの羊飼いとして、不安を抱えながら生きる小さなわたしたちを捜し出し必ず救って下さる主なのです。
「よき羊飼いであられる主イエスよ。
わたしたちは、小さな者です。
ずっと続く不安や労苦の中で迷っているものです。
ただ、あなただけがよき羊飼いとして、又労苦といとわれない十字架の主として、
わたしたちを捜し出し救って下さることを感謝します。
今週もよき羊飼いであられ、又十字架の主イエスを仰いで進ませて下さい。
主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」