2008年1月20日(降誕節第4主日)
きょうは、マタイ16:21-23です。21節は、「この時から」で始まっています。「この時から」とは、前節のマタイ福音書の第1部の終わりでもある、20節とつながっています。即ち、20節は、主イエスがご自分のことを誰にも言う必要はないと言うことでした。21節は、マタイ福音書の第2部の始まりであって、そのことと反対に「この時から」主イエスは、ご自分のことをまず弟子たちに、さらには誰にも分かるように示し始められたのでした。即ち、主イエスはエルサレムに行き、十字架につけられることを示されたのです。
このことは、ユダヤ人の長い間の考え方からすると、義人は苦しむことともつながっています。悪人はのうのうと繁栄を楽しんでいるのに義人は苦しむことが多いと言うことは、現代でも見られることですが、ユダヤでは、ヨブ記や詩篇やエレミヤ書などにそのことが記されています。
主イエスは、救いの道を示されたにもかかわらず、ユダヤ人の言う義人としてばかりではなく、神の子としてその苦しみをエルサレムで受けられることを示されたのです。
主イエスにこの苦しみを与える者たちを、21節では「長老、祭司長、律法学者」のグループとしています。この三者のグループは、マタイ27:41で主イエスの十字架をあざけり笑う者とされています。即ち、この三者が主イエスを十字架と苦しみに追いやると言うことは、神が主イエスを神の子として送って下さった神のご計画をあざけり笑うと言うことです。
さて、21節で主イエスは弟子たちにご自分のことを「示し始められた」とは、弟子たちこそ前記の三者のようになるのではなく、主イエスがどう言う方か分かるべきだと言うことです。即ち、主イエスが、神の子として救いをもって来て下さったこと。ひいては、神のこの計画を前記三者のようにあざけり笑うものではなく、しっかりと受け止めるものであれと言うことです。
ペテロは、22節で主イエスのエルサレムにおける十字架について、
と言いました。22節のペテロが主イエスを「いさめ始める」とは、「命令する」とか、「自分の意のままに動かそうとする」と言うことです。即ち、ペテロは、偉そうに主イエスの上に立って、あるいは主イエスを送られた神の上に立って主イエス又神のご計画をも反対側に動かそうとしたと言うことです。
主イエスは、こうしたペテロに23節で、
と言われました。「サタン」とは、マタイ福音書4:10にも出てくるように、神あるいは神のご計画と対立するもののことです。即ち、ペテロは弟子を代表しながら、又16:16では、主イエスのことを「あなたこそ生ける神の子キリストです」と正しく答えていながら、今や(マタイ福音書の第2部の始まりで)ずっと後退して、神のご計画と対立するものとなったのでした。
23節のペテロが、主イエスの「邪魔するもの」となっているとは、原文ではつまづいているものとなっています。
ペテロがつまづいてしまったのは、無理からぬところがあったでしょう。即ち、ペテロは主イエスの近くにいて、主イエスを思うあまり、主イエスに十字架どころかひとつの傷をも負わせたくはなかったのでしょう。しかし、ペテロは、主イエスの考え、又神のご計画を第一とはしなかったのです。
とくにペテロが、よく聞いていなかったのは、21節では主イエスは「3日目によみがえる」と言うことです。即ち、16節にあったように主イエスは、「生ける神の子キリスト」であって、つまり正しく
主イエスのみ言葉をしっかり聞いていない、つまり、つまづいているペテロに23節で、主イエスは「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われます。
主イエスは、ペテロに3日目によみがえる方として、即ち、生ける神の子キリストとして、人間の不信の力やあざけりの力に勝利される神の救いの計画を見よと呼びかけられています。わたしたちも多くの困難に出会っていくでしょう。しかし、その時も3日目によみがえられる生ける神の子キリストと、この方を送って下さった神のご計画を見上げていきましょう。
「生ける神の子主イエス・キリストよ。
あなたは3日目よみがえられる方として、
この世のあざけりや矛盾や困難に打ち勝った主としてご自分を示して下さいます。
わたしたちも多くの困難をかかえて道を迷ってしまいます。
ただ生ける神の、即ち、正しく審き、救い顧みて下さる神とあなたの救いを見上げて進ませて下さい。
主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」