2007年11月11日(降誕前第7主日)
マタイ18:1-4を通して主のみ言葉を学びましょう。1節の「いったいだれが天国ではいちばん偉いのですか」と言う主イエスの弟子たちの質問は、ほかに(20:20以下などに)あるように、彼らが日頃よくしていた、あるいは心の中でよく思っていた質問でした。そう言うことから、1節の上記の質問は、わたしたちにとってもよく考えてみるべき質問(のひとつ)です。
さて、1節の質問は、文頭に「いったい、だれが」と言う言葉が出ています。この疑問文で言いたいことは、主イエスの弟子たちの中に、いちばん(天国で)偉いと言える該当者がいるのではないですか、と言うことです。
マタイ16:17以下には、主イエスは、弟子たちの中でもペテロ、ヤコブ、ヨハネが、主イエスと共に高い山に登るものとして―――即ち、重要な弟子たちとして―――登場してきます。つまり、「偉い」ものがいるとすれば、より絞った形では、上記の3人が該当する可能性は考えられます。
ところが、主イエスは2-3節で意外な答え方をしておられます。
即ち、その弟子たちは自分たちが、その該当者ではないかと言う思いに対し、意外にも主イエスは、「幼な子」を呼び寄せ、真ん中に立たせ、即ち、誰の目にも分かる形にして言われます。
「幼な子」とは、ユダヤでは(例:シラ書30:1以下)、未熟で、神と人の正しい教育を必要とするもののことです。又、ヘレニズム(ギリシャ)文化の中では「幼な子」とは、ほとんど無視された存在です。
ところが、主イエスは、このように扱われてきた「幼な子」をみんなの目の前ではっきり分かるように取り上げられます。4節では「幼な子」に、さらに「この」がついて、「この幼な子」と強調されています。
さて、このように、主イエスが真ん中に立たせ目に見えるように強調して取り上げられる「幼な子」とは、3節では「心をいれかえる(もの)」又、4節では「自分の身を低くするもの」として、誰の目にも分かるように差し示されます。
さて、ここで「心をいれかえて幼な子のようになる」(3節)とか、「幼な子のように自分の身を低くする」(4節)とは、自分や社会にある考え方の転換を表す言葉です。即ち、今まで自分や社会には、固執せざるを得ない考え方があった。又、今まで自分でも社会の中でも絶対的だと言っていいような考え方があった。しかし、それを一度つき放してみると言うことです。例えば、NHKの番組に『一期一会』と言う番組があります。この番組に登場するのは好対照の2人です。例えば1人は、人の目は全く気にしないが、もう1人は、人の目が気にかかってどうしようもないと言うような2人が登場します。人の目とは無視できるものでもなければ、無視していいものでもないでしょう。しかし、人の目(評価)は絶対的に正しいとは言えません。むしろ(例は挙げませんが)正しくないことの方が多いのです。つまり、自分の考え方にしろ、社会の考え方にしろ、それらは一度つき放してみる、即ち考え方の転換をしてみることは必要です。
もうひとつ、3節の「心をいれかえる(幼な子)」とは、端的に言って神に帰ると言うことです。
わたしは最近自分の身の周りに、友人・知人が脳出血で倒れるということを経験しました。そして、わたしは自分でも家を出かける時、健康の不安を覚え出かけることがあります。枕草子には、どうせ生きるのならいそいそと心はずんでやろうよと言う段がありますが(74段)、人は誰でもいそいそと仕事に励み、いそいそと生きては生きたいけれども、しかし、例えば倒れるかもしれないと言う不安に駆られることは人間にはありましょう。又、光の見えないことも経験しましょう。人の目(評価)が絶対正しいように気になって仕方ない時もありましょう。
しかし、このような時わたしたちが帰っていくところはどこか。わたしたちは、「幼な子のように心をいれかえて」神の家に帰っていく。―――このことを主イエスは、3節の「心をいれかえて幼な子のようになる」、4節の「幼な子のように自分の身を低くする」と言うみ言葉を通して語られるのです。
わたしたちは、ただ主イエスを通して、神が、心をいれかえてここに、即ち、神の家に帰ってこいと呼びかけられる、そのみ言葉と救いと招きの呼びかけに応じて、幼な子のように心をいれかえて身を低くして、神の家に帰っていきたいと願う次第であります。
わが主、わが神よ。
あなたは、主イエスを通して、わたしたちに『わたしの家に幼な子のように心をいれかえて帰ってきなさい』と呼びかけられます。
人生は不安に駆られたり涙に満ちることや人の目や評価しか目には入らないことがありますが、
ただ、あなたのみ言葉と『わたしの家に帰ってきなさい』と言う呼びかけに応えて、自分の身を低くして、あなたの家に帰らせて下さい。
主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」