2007年7月8日(聖霊降臨節 第7主日)


マタイによる福音書 11章25〜30節




『天 地 の 主 な る 神 よ』



  きょうは、マタイ11:25-30です。ここを通して、主の御祝福を学びましょう。主イエスは、25節で、神を「天地の主なる父よ」とほめたたえられました。神をこのように呼びかけることは、当時、即ちユダヤ教の中でもたいへん珍しいことです。

  主イエスは、神をこのように呼びかけながら、27節で「すべて事は父からわたしに任せられています。」と言われます。

  当時、ユダヤ人にとって救いがそこにあること、即ち任せられているところとは、律法の下にきて、律法を学ぶことでした。25節の「知恵のある者や賢い者」とは、当時のユダヤ教の律法に、知恵や救いを見い出す者のことで、具体的には、律法学者やパリサイ人をさしています。

  これに対して、主イエスは、神を「天地の主なる父よ」と呼びかけて、神がすべての救いと知恵を律法ではなく主イエスに任せておられると言われます。

  そして、このことを知ろうとしたのは、ユダヤ教のように律法に救いと知恵を見い出したものでなく、25節の「幼な子」である、と主イエスは言われます。

  25節の「幼な子」とは、たとえであって、ユダヤの律法の下に知恵や救いを見い出すもの、即ち、自分たちの力で神の救いや知恵に到達しようとする者ではなく、徹底的に、自分たちの力では立たず、天地の主なる神からすべてのことを任せられた主イエスの働きかけとみ業のみによって立ち上がるもののことです。

  即ち、25節の「幼な子」とは、天地の主なる神が送られた主イエスのみに、救いと知恵があることを受け入れていくもののことです。

  さて、25節の「幼な子」又、26節の「みこころにかなった」と言う言葉は、文の背後には、当時、主イエスを信じる者が、自分及び自分たちの周りに起ってくる出来事は、天地の主なる神のみこころだろうかと言う思いがある中で語られています。

  即ち、天地の主なる神を信じ、すべてのことを任せられた主イエスを信じることは、ものごとがスイスイと片付いて、青空天井のような世界を生きていくことではないのでした。むしろ、自分及び自分の周りに起ってくることは、天地の主のみこころだろうか、と言う思いで生きていくこと、即ち、うまくいかないことや無理解もありますし、苦しい羽目に陥ることがよくあったのです。25節の「幼な子」が18:6では、「小さい者」と言いかえられているのは、そう言うことです。

  しかし、天地の主なる神よりすべてのことを任せられた主イエスは、今もそう言う中を生きるわたしたちひとりひとりに、そして、小さな者にすぎないわたしたちに28節と29節で、

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」

  ユダヤ教で28節の「重荷を負うて苦労している者」とは、又29節の「くびきを負う者」とは、律法をそらんじるほど苦労して学ぶ者のことです。

  しかし、主イエスの言われる28節の「重荷を負うて苦労している者」とか、28節の「わたしのくびきを負う者」とは、前後関係から(とくに10章)、主イエスに従う者のことです。即ち、自分や自分の周囲を見ればそこに起ってくる出来事は、神のみこころにかなっているだろうかと言うことがある。うまくいかないことがある。無理解や苦しい羽目にも陥ることがある。しかし、この中を生きるわたしたちひとりひとりに主イエスは、「わたしのもとに来なさい。」(28節)「わたしに学びなさい。」(29節)即ち、天地を支配される神がすべてのことを任せられた主イエスに従い、主イエスのみを救いと知恵と祝福の源としなさい、と言われるのです。今週も、天地の主なる神の送られた主イエスのみに従い、又主イエスのみを祝福の源として、すこやかに生きていきたいと願います。


お祈りを併せましょう。


   「天地の主なる神よ。

   きょうのみ言葉を感謝します。

   わたしたちは、小さな者に過ぎず、

   うまくいかないことがあります。

   神のみこころと反対のことが起ってきます。

   無理解や苦しい羽目にも陥ります。

   主なる神よ。あなたがすべてのことを任せられた主イエスに従い、

   救いと知恵と祝福の源とさせて下さい。

   今週も祝福し、「わたしのもとに来なさい」と招いて下さる

主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。

アーメン。」