2007年6月10日(聖霊降臨節 第3主日)
主の御祝福をお祈りします。きょうはマタイ11:2-6です。
2節には、バプテスマのヨハネが登場します。彼は、「キリストのみわざ」について伝え聞き、―――彼は獄にあったので―――彼の弟子たちを主イエスのもとにつかわして主イエスに尋ねました(3節)。
2-3節バプテスマのヨハネの主イエスに対する質問の中で、重要なことばは、2節の「キリストのみわざ」と言うことばです。
まず、「キリスト」と言うことばは、福音書の中ではいっぱい出てくるであろうと推測しますが、マタイ2:4で初めて「キリスト」と言うことばが出てきて以来、ずっときょうの11:2まで出てきていません。しかも「キリストのみわざ」とは、28章もある長いマタイ福音書の中ではここだけにしか出てきていません。即ち、きょうのところでは、まず「キリストのみわざ」がとくに強調して取り上げられています。
さて、「キリストのみわざ」とは、具体的にどういうことでしょうか。この問いに答える前に、3節のバプテスマのヨハネの主イエスに対する質問にふれておきたいと思います。バプテスマのヨハネは、主イエスに「『来るべき方』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。」と質問しています。このような質問に対する答えは、当時は「わたしがそうである(ないしは、そうではない)」と言うものでした。
ところが、主イエスは当時の受け答え方に従って、「わたしがそうである(ないしは、そうではない)」とは言われず、その代わりに4-5節で次のように答えておられます。
ここで、日本語訳の問題にふれておきたいと思います。日本語訳では、4節で、「あなたがたが見聞きしていること」となっています。しかし、ギリシャ語の原文では逆になっていて、はじめに「聞く」があり、次に「見る」が来ています。この順序は大切です。
なぜこの順序が重要かと言うと、5節の「盲人は見え」から「死人は生きかえる」までは奇跡に属することで、「見る」とつながっています。そして、5節の最後に聞くにつながる「福音を聞かされている」が来ています。即ち、4-5節の主イエスの答え方を見渡して見ると、まず「聞く」(これをAとする)があり、次に「見る」(これをBとする)があり、その次に「見る」とつながる5節以下の奇跡のことがあり(B)、最後に「聞く」とつながること(A。=福音を聞かされている)があります。つまり、文章構成上、ABBAの形をとって(=キアスムス。日本語では「交差法」)、前後関係からAの「聞く」が強調されています。
即ち、きょうのところでは、キリストのみわざとは何か。それは、主イエスは福音を宣べ伝えられ(11:1)、そのことを「聞く」こと、又5節によれば「福音を聞かされている」ことが強調されているのです。5節の「福音を聞かされている」は、12:28の「神の国はすでにあなたがたのところに来た」とも深く関連して主イエスが宣べ伝えられた福音は、キリストのみわざであって、あなたがたはいますでに福音を聞いている状態にある―――このことがきょういちばん言いたいことです。
わたしたちが、いまの世の中を生きることはたくさんいやなことも経験するでしょう。「こんなはずじゃなかった」と自分の計画や思いとまるっきり反対のことも起ってきます。しかし、きょう主イエスがいちばん言われたいことは、「キリストのみわざ」としてあなたがたはきょう、又いま福音と祝福を聞いている状態にあると言うことです。
今週も、主イエスの福音をしっかりと聞いて、主の祝福を受けて、わたしたちは、明るくさわやかに生きていきたいのであります。
「主イエスを送って下さった神よ。
あなたは、キリストのみわざを通して、わたしたちに福音をいま聞かせて下さいます。
わたしたちは、いやな思いもたくさんしますが、ただ、あなたのみわざと福音を聞き、
又、あなたのみわざと福音に生かされて、今週もさわやかに進ませて下さい。
主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」