2007年1月7日(降誕節第2主日)


マタイによる福音書 8章5〜13節




『主 の 祝 福 に 生 き る』



  新しい年もおひとりおひとりの上に主の御祝福がありますように。

  新しい年の初めの礼拝において、マタイ8:5-13を通して、主の御言葉を学びましょう。

  まず、5節には、「イエスはカペナウムに帰ってこられた」とあります(9:1も同じ)。カペナウムは、ガリラヤ湖畔にあって、主イエスは、ここを活動の本拠地としておられました。ガリラヤ、あるいはガリラヤのカペナウムとは、マタイ福音書4:13-16によれば、異邦人の地ガリラヤに光がのぼったところとされています。

  次に出てくるのは、百卒長ひゃくそつちょうのことです。百卒長とは、ユダヤ人ではありません。ユダヤ人は、ユダヤ人以外のことを一段見下げて、「異邦人」と言っていました。ここで百卒長とは、そのような異邦人のことです。

  さて、この異邦人の百卒長は、主イエスのみもとにきて言いました。

「主よ、わたしの僕が中風ちゅうぶでひどく苦しんで、家に寝ています。」

  この6節の百卒長の訴えに対して、主イエスは7節で、

「イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。」

と言われています。

  百卒長は、主イエスのこのお言葉に対してユダヤ人が一段見下げている異邦人の家に行くなどとはありえないなどの理由もあって、大変恐縮して、8-9節で次のように言っています。

「そこで百卒長は答えて言った、「主よわたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、他の者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。」

  これらの百卒長の言葉は、自分の生活体験から出てきたものです。百卒長は、自分の生活体験から言って、上司の言葉(今なら服務規程と言うべきかもしれないが)に命令の力と権威がこもっていることを知っていました。

  さて、8-9節で、百卒長の言いたいことは、上司や服務規程は、力が伴うもので従うべきだと言うことばかりではありません。8-9節で百卒長の言いたいことは、主イエス、あるいは主イエスのお言葉に対する根本的な信頼です。即ち、百卒長にとって主イエスは、百卒長とは言え、異邦人のこの自分のところに、又異邦人の地ガリラヤに光を照らして下さる方だと言うことです。

  クリスマスでは、マタイ2章を学びました。ここで語られていることは、東の方からやってきた博士たちに主イエス・キリストがおお生まれになるとは、即ち、主イエス・キリストがきて下さるとは、「牧者」(マタイ2:6)となって下さると言うことでした。

  さて、10節によれば、このことを受け入れたのが、百卒長でした。即ち、主イエスは、百卒長の信仰を「イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことはない」(10節)と言われました。

  もう一度、7節に戻りますと、7節で強調されているのは、「わたしが行ってなおしてあげよう」と、主イエスはご自分のことを「わたしが」と言われた主語です。7節では、主イエスをさしているこの「わたしが」は、とても目立つ強調された形でしるされています。7節の「わたしが」とは、主イエスが、異邦人の地ガリラヤに光をのぼらせて下さる方であると言うことです。又、主イエスとは、クリスマスに登場する博士たちばかりではなく、わたしたちの「牧者」、即ち、よい道を示して下さる羊飼いとなって下さる方だと言うことです。

  わたしたちも百卒長のように、又その僕のように、ひどく悩むこともありましょう。しかし、ここも主イエスは、「わたしが行ってなおそう」と言って下さるのです。即ち、わたしたちの上に光をのぼらせて下さる主であり、又よき導きをして下さる「牧者」であられるのです。わたしたちがこのことをしっかりと受け止めることを、きょうのみ言葉は語りかけているのです。


お祈りを併せましょう。


   「主よ、主イエス・キリストよ。

   百卒長やその僕のように、わたしたちもひどく苦しみます。

   しかし、主よ。あなたが異邦人の地ガリラヤに光をのぼらせ、

   又牧者となって下さることをしっかりと受け止めさせて下さい。

   新しい年も、あなたの祝福のお言葉に送られて、ひとつひとつの学びを恵みとさせて下さい。

主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。

アーメン。」