2006年12月10日(降誕前第3主日)
この季節もおひとりおひとりの歩みの上に、主の御祝福が豊かにありますように。研究を続けておられる方の上にその歩みが祝福されますように。
きょうは、マタイ7:15-24です。まず、15-16節には、
この言葉の直接の聞き手は、主イエスの弟子たちでしたが、わたしたちにも相手が(自分を含めて)、「にせ預言者」であるかどうか見わける眼をもてと言われています。
さて15節の「にせ預言者」とは、マタイ23:27-28によれば、律法学者やパリサイ人のことです。さらにこのことばは、律法学者やパリサイ人ばかりではなく、もう少し広くとらえられています。即ち、旧約聖書他をさかのぼっていくと、「にせ預言者」や16節の「強欲さ」とは、
?@ 主なる神を拝まず神々や偶像礼拝に陥っている者(申命記13:2以下)。
?A ディダケー(使徒の教え)と言う文書によると自己中心的な者。
?B エゼキエル書22:27によれば金銭欲などに振り回されている者。
などをさしています。
そう言う意味で、15-16節は、律法学者やパリサイ人ばかりではなく、神々や偶像礼拝をする者や自己中心的な生き方をする者や金銭欲にとりこになっているものなどに振り回されず、見わける眼をもって、17節では、
とあるように、「良い実を結ぶ」生き方をしなさいと言われています。
さて、17節以下で強調されている「良い実を結ぶ」とは、どういうことでしょうか。このことを考える上で重要な文は、マタイ3:8です。
即ち、マタイ3:8では、「実を結ぶ」とか「良い実を結ぶ」とは、結果であって、その前に「悔い改める」ことが重要だと言われています。
「悔い改める」とは、パリサイ人や律法学者のように律法主義的にならないばかりか、申命記13:2以下にあるように、神々や偶像礼拝に走らないことです。又、ディダケー(使徒の教え)にあるように、自己中心的な生き方をしないことです。又、エゼキエル22:27にあるように、強欲な金銭欲などにとりこにならないことです。即ち、主なる神のもとに立ち戻ることです。詩篇51:16-17には、
とあります。
即ち、「悔い改める」とは、砕けた悔いた心を受け入れられる神のもとに戻ってくることです。又、「悔い改めよ。天国は近づいた。」と言われる(マタイ4:17)、主イエスのもとに戻ってくることです。
さて、「悔い改め」に続いて結果として起こる「その実」とは、16節では複数形(彼らの実)となっているように、人間の良い行いのことです。
マタイ13:20以下によれば、「実」あるいは、「良い実を結ぶ」と言う人間の良い行いとは、主イエスのみ言葉のみに聞き従いつつ、困難や迫害、又世の心づかいや富の惑わしにうち勝っていくことです。そして、主イエスは、直接の聞き手である弟子たちばかりではなく、わたしたちにもそのことをお求めになるのです。
即ち、わたしたちも主イエスの弟子たちが際会したような困難や迫害、又世の心づかいや富の惑わしなどに際会することは現代では珍しくはありません。
こうした中で、わたしたちもまず悔い改めつつ、主なる神のもとに立ち戻り、又弟子たちばかりではなくわたしたちにも山上の説教を語り、「さいわいなるかな」、又「思い患うな」と言って下さる主イエスのみ言葉に立ち戻っていって、わたしたちがいくつも際会する困難にうち勝っていくこと―――これが、「良い実を結ぶ」と言うことです。
現代では、就職や仕事の上で、又人々との様々な出来事の上で、困難さや振り回される出来事に出会うことは珍しくないでしょう。しかしわたしたちは、悔い改めつつ、「さいわい」のみ言葉を語り(マタイ5:3-10)、「思い患うな」と言われる(マタイ6:15-34)主のみ言葉に立ち戻って明るい実、さわやかな実をつけるものでありたいのであります。
クリスマスとは、主のみ言葉と幸いに立ち戻りつつ、さわやかで明るい実をつける時であります。
「悔いし心をかろしめられない主よ。
ほかでもなく、あなたのもとに立ち戻り、
又、あなたの幸いと祝福のみ言葉に立ち戻らせて下さい。
わたしたちには、いくつもの困難はありますが、
ここも、主が豊かに祝福して下さるところとして、
明るいさわやかな実をつけさせて下さい。
主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」