2006年10月8日(聖霊降臨節第19主日)


マタイによる福音書 6章5〜8節




『 必 要 な も の は 主 よ り 』



  10月になり、おひとりおひとりの上に、主の御祝福がありますように。教会より遠くの地にある方々、研究の歩みを続けている方々の上に、主の御祝福を祈っています。

  きょうは、マタイ6:5-8です。ここは、祈りの重要さについて教えられています。ユダヤ人は、施しの重要さ(6:1以下)、断食の重要さ(6:16以下)を大切にしていました。きょうのところは、施しに次いで第2番目に祈りの重要さが挙げられています。

  さて、ユダや人は祈りを重んじていましたが、主イエスによると、当時のユダヤ人の祈りの有り様は、5節のようになっていました。即ち、

「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」

  さて、5節の「会堂で祈る」とは、わざわざ「立って祈る」とあるように、これ見てくれと言わんばかりに、あるいは、自分はこんなに信仰があり、良い行いをしていると言わんばかりに、人に見られること、又人に良く評価されることを第一としていくことです。次の「大通りのつじに立って祈る」もほぼ同じ意味です。

  今テレビで大河ドラマ『功名が辻』が放送されています。先週1日の放送では、秀吉が、自分の息子の秀頼を「くれぐれもよろしく頼む」と言って死んでいくところでした。この時家康はやっと自分の出番がきたと思ったのでしょうか、西田敏行さんが扮する家康は、いかにもそうだったことを彷彿とさせるように、「長かった。長かった。待った。待った。」と言います。

  このように「辻」とは、十字路と言うばかりでなく、人間や人々の思惑、計画、意向がぶつかり合うところです。主イエスは、当時のユダヤ人が「大通りのつじに立って祈る」のを見て、ユダヤ人の思惑は、人に見られること又人に良く評価してもらうことを第一としていると言われます。

  こうした当時のユダヤ人の祈りの有り様について、主イエスは「彼らはその報いを受けてしまっている。」と言われます。この意味は、人に見られること、又人に評価してもらうことが全てだと言うことでした(ヨハネ5:44参照)。

  さて主イエスは、人に見られること、又人に評価してもらうことが全てだと言う当時のユダヤ人の祈りの有り様や思惑に対して6節で言われます。

「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

 

  ここに出てくる「自分のへや」とは、今の2LDKとかそうした部屋ではなく、当時はひとつの部屋しかない家のことであって、窓もなく、入り口のドアを閉めたら部屋全部が光のささない真っ暗な部屋のことです。そこで主イエスは、自分の部屋である窓もなく、ドアを閉めたら真っ暗な部屋に入って祈りなさいと言われます。

  即ち、主イエスの言われる「自分のへやで祈りなさい」と言うのは、会堂や大通りのつじに立って人々に見られたいために祈るのではなく、ただ神にのみ心を上げ自分の姿勢を整えることです。

  主イエスは、8節であなたがたの父なる神は、求めない先からあなたがたに必要なものはご存知であると言われます。この8節で大切なことは、ただ神とは言われず「あなたがたの」神と言われていることです。

  イザヤ書65:24には、

「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。」

とあります。

  8節で言われていることは、7節と対照的になっています。

「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」

  7節の「くどくど祈る」とか「言葉数を多くする」とは、当時のユダヤ人の祈りの有り様が書いてあって、神々の名を次々に呼び出していくこととか、神に道を示され教えられるのではなく、反対に人間が神に道を示して教えてあげるような姿勢でいることです。

  主イエスは、「くどくど」と又「言葉数を多くして」祈る必要はなく、又人に見られることを第一とするのでもなく「自分の部屋」に入って、あなたがたの必要なものはご存知である神にのみ向って祈りなさいと言われます。このような祈りのよき典型的な模範は、9節以下の「主の祈り」です。主の祈りは、その動詞に、神のみがなして下さる動詞(アオリスト形)が用いられたように、ただ神のみがわたしたちに最も近い「あなたがたの神」であられて、よき救いになる道を示して下さる方だと言うことを教えています。

  世の中を生きていくことは、主イエスの弟子たちがそうであったように、迫害やいじめにも遭います。分からないでやっていたら救いはあるが、確信犯的に分かっていておかしなことを言ったりやる人もいます。小さなことにこだわりすぎて角を矯めて牛を殺すような、人をつつき回すような人もいます。人には、長く長く忍耐の時もあります。

  しかし主イエスは、あなた方の神は、あなた方の必要なものはご存知であると言われ、会堂や大通りのつじに立って祈るような、人によく見られるためではなく、自分の部屋に入って必要を満たして下さるあなた方の神にのみ向って祈りなさいと言われます。ローマ書8:28には、

「万事を善として下さる神」

とあります。

  わたしたちは、この神に向ってこころを高くあげ、今週も明るくさわやかに、又健やかに力強く進んでいきたいと願うのであります。


お祈りを併せましょう。


   「主よ。必要なものをご存知であられる神よ。

   人によく見られることを第一とするのではなく、

   又、人のつくる誘惑にもとらわれず、自分の部屋に入り、

   わたしたちの主であられるあなたに向って祈ることを第一とさせて下さい。

   あなたは、万事を善として下さる方です。

   主よ、あなたにのみ、心をあげ、今週も明るくさわやかに、

   そして健やかに力強く進ませて下さい。

主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。

アーメン。」