2006年9月10日(聖霊降臨節 第15主日)
今週もひとりひとりにとって主の御祝福がありますように。当教会より遠隔地にある方々の上に主の御祝福をお祈り致します。
きょうは、マタイ5:33-37です。33節は、『』がついていて、当時のユダヤ教の重要な教えです。
これらの言葉の背景には、十戒の八番目の戒め(隣人に偽証を立ててはならない)や申命記23:21-23や伝道の書5:4-5などがあって、人間が人間に対して誓いを果さないばかりではなく、とくに人間が神に対して誓い(約束)を果さないことや先延ばしすることがありました。即ち、33節は、自分たちや世の中を問うことでもあります。
さて、34節以下が主イエスの強調されたところですが、4つの誓いが出てきます。即ち、天をさして誓うこと。地をさして誓うこと。エルサレムをさして誓うこと。自分の頭をさして誓うこと。これらの4つの誓いは、当時のユダヤ人がよく行っていた誓いです。その大きな理由は、ユダヤ人にとって十戒の第二の戒め(神のみ名をみだりに唱えてはならない)は重大なものであったので、神のみ名はみだりに、即ち、軽率には口にしませんでした。しかし、その代わりに(神のみ名を出す代わりに)、当時のユダヤ人は天や地やエルサレムや自分の頭を指さして(心の中でも)誓いをしました。
さて、当時のユダヤ人がみだりに神のみ名を口に出さないからと言って、その代わりに天や地やエルサレムや自分の頭をさして誓ったからと言って、そこには人間の真実、正しさ、信用性がこもっているとは言えません。
つまり、当時のユダヤ人は、神のみ名は恐れ多くて口にしない代わりに、天や地やエルサレムや自分の頭を引き合いに出してくることによって、根本的には神の真実や正しさを言いたいのではなく、誓いを用いて自分たちの正しさを一番言いたかったのでした。ですから、「天や地やエルサレムや自分の頭をさして誓う」と言うのは、根本的には、自分(たち)は正しいとか間違っていないことを強く言い張ることと同じことです。しかし、実際には人間とは誤り多きものではないでしょうか。
最近、TV等で人気の島根県東出雲中の英語の先生が、とても大切なことを言っておられます。この先生は、かつて神戸での教師時代はスパルタ教育で徹底されたそうです。しかし、生徒の恨みを買った。この時の失敗を活かし、授業に工夫をこらした。そのひとつは、教師はエンターテイナーだと言う考え方です。さらに授業の工夫とは別に、この先生が大切にしていることは、自分にも戒め、生徒にも大事にしてほしいと言っていることは、「人の痛みの分かる人間たれ」と言うことです。
さて、34節以下で注目したいのは、主イエスは、当時のユダヤ人の4つの強い誓いを打ち消して、「天をさして誓うな。それは神の御座であるから。」「地をさして誓うな。それは神の足台であるから。」「エルサレムをさして誓うな。それは大王(=神)の都であるから。」「自分の頭をさして誓うな。」と言われていることです。ここで主イエスは、天を支配する神の御座を見よ。地を神の足台として支配する神を見よ。エルサレムを神の都として支配する神を見よ。髪を白くも黒くもすることのできる神を見よ。と言われています。即ち、ユダヤ人や人間の誤り多い実態に対し、ただ神のみが約束を果し、真実で正しくあられると主イエスは言われます。
使徒パウロは、?Uコリント1:15以下で、次のように言っています。即ち、パウロは、「コリント教会に行く」しかも「恵みをもっていく」と約束したが、果せませんでした。このことはコリントの人々に、パウロはできもしない約束をしたと言って、軽率だと非難されました。パウロはパウロで、どうしても約束をしたものの、コリントに行くことのできない事情に阻まれていたのでした。この時ほどパウロは信用を失い非難を浴びてつらいことはなかったでしょう。
しかし、パウロには、?Uコリント1:19で、次のことを強調しています。
即ち、わたしたちひとりひとりにはっきりしていること(「しかり」となっていること)は、神の約束が主イエス・キリストにおいて実現していることです。きょうの37節の「しかり、しかり」も根本的には同じことをさしています。
わたしたちにとって、37節の「しかり、しかり」即ち、はっきりしていることは、人間のつくる困難と誤りの多い中を、ただ神のみが約束を果して下さると言うことです。このことを、わたしたちがはっきり受け
「主よ。
わたしたちも、人間のつくる世の中も、誤りの多いものです。
わたしたちは、言葉数を多くして、自分たちの正しいことを言い張ろうとします。
わたしたちではなく、主よ、ただあなただけが、わたしたちに救いと祝福の約束を果して下さいます。
人の痛みの分かるものにして下さい。
だれでもが、すくすくと成長できる世の中に導いて下さい。
今週も、御座にいます天と地を支配し、わたしたちの御祝福の源となって下さる主よ、
あなたを見上げて深い喜びとともに、又、謙虚に進ませて下さい。
あなたの送られた主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」