2006年8月6日(聖霊降臨節 第10主日)
暑いですね。主の御祝福と健康の支えがおひとりおひとりにありますように。先週は、青木兄のご家族と共に礼拝できたことを主に感謝します。当教会より遠くにあって礼拝出席ができない方々の上に、主の御祝福と支えを祈ります。
きょうは、マタイ6:10です。この10節は、「御国」についての祈りであり、主の祈りの中心です。ユダヤ教にも中心的な祈りがありました。ユダヤ教の「聖なる祈り」とか、「18の祝福の祈り」は、ユダヤ人の中心的な祈りで、1日に3回唱えるものでした。これらのユダヤ教の中心的な祈りときょうの主の祈りを比べてみるといくつかの違いがあります。
まず第1は、「御国」が誰に訪れてくるかと言うことです。ユダヤ教では、「御国」とは、ユダヤ人に訪れてくるものでした。しかし、主の祈りでは、「御国」とはユダヤ人に訪れるものではありません。例えば、マタイ21:43には、
とあります。主の祈りで「御国」とは、主イエスが必要とされたところ、特に弟子たちや教会の上に又ユダヤ人以外のところに訪れてくるものでした(マタイ5:1-2)。
主の祈りとユダヤ教の中心的祈りの違いの第2は、「御国がきますように」の「御国」をきたらせるのは誰かと言うことです。同じく「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」の行うのは誰かと言うことです。ユダヤ人やユダヤ教やユダヤ教の中心的祈りでは勿論、神が「御国」をきたらせるのです。しかし、そのこと以上にユダヤ人にとって重要なことは、神から律法を与えられ、律法を行う
これに対し、主の祈りで「御国」をきたらせる主語としては、ユダヤ人とか義しい人とか、根本的にはどんな人間も「御国」をきたらせるとは考えられていません。同じく「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」の「みこころが地にも行われる」のは、ユダヤ人とか義しい人とか根本的にどんな人間も「みこころを行う」とは考えられていません。
「御国がきますように」の「きますように」と「地にみこころが行われますように」の「行われますように」の2つの動詞に注目すると、この2つの動詞には、いかなるユダヤ人も義しい人も根本的にはいかなる人間も引き起こすことのできない、ただ神のみが行って下さる出来事だと言うアオリスト形の動詞が用いられています。即ち、「御国」をきたらせて下さるのは、いかなる人間でもなく、ただ神のみだと言うことです。同じく「地にもみこころが行われるように」して下さるのは、いかなる人間でもなく主イエスを送りたもうたただ神のみだと言うことです。
このことは、10節の「みこころ」と言う言葉の使い方からも証明されます。マタイ福音書で、10節の「みこころ」と深く関係しているところは、マタイ18:14と同26:42です。
即ち、このように「みこころ」が出てくる上記2箇所では、「みこころ」とは、神が行い如何なる人間でなくただ神のみがわたしたちひとりひとりに「御国」をきたらせて下さると強調されています。同じく「地にもみこころが行われる」ようにして下さるのは、ただ神のみがそうして下さると言うことです。
詩篇127:1には、
とあります。
創世記22:8には、
とあります。
マタイ福音書の主題は、
です。
10節の「地にも」は、9節の「天にいます」と対照化されて即ち「地にも」とは、マタイ5:10にあるような教会の迫害とつながっています。又10節の「地にも」の意味は、救い主の、神のみ名が地の上ではあがめられていないと言うことです。最近のわたしたちは地の上で、異常に格差が開く世の中とか、日本人の劣化とか言われる世の中で生きていかねばなりません。即ちわたしたちは心身の圧迫の多い世の中で生きているのです。
こうした中で、きょうの10節は、主の祈りの中でも中心的なもので、ただ神のみがわたしたちひとりひとりの上に御国をきたらせて下さること。ただ神のみが、みこころを地の上に行って下さることを強調しているのです。
主は、家を建てたもう。
主は、備えたもう。
主は、われらと共にいましたもう。
即ち、今週もただ主イエスを送られた又主の祈りを通して祝福を示された神のみがわたしたちひとりひとりを圧迫から救い豊かに祝福して下さっているのです。
「わたしたちを建てたもう、備えたもう主よ。
主イエスを送って下さった主よ。
御国をきたらせて下さるのは主なるあなたです。
地の上にもみこころを行って下さるのは主なるあなたです。
圧迫も多い世の中ですが、心身ともに健やかに主なるあなたの救いと祝福を見上げて今週も進ませて下さい。
御国を来たらせ、地にもみこころを行って下さる主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」