2006年3月12日(四旬節 第2主日)
復活祭(今年は4月16日(日))を待つ季節となりました。この季節は四旬節(レント)であり、悔い改めつつ、復活祭を待つ時です。
さて今日は、マタイ3:4-9を通して主の生けるみ言葉を学びましょう。まず、4節には、バプテスマのヨハネの生活ぶりが記されています。彼は、ユダヤ教のエッセネ派(死海のほとりで修道院的生活を送っていたクムラン教団のこと)の出身でした。4節のヨハネの生活の仕方は、旧約聖書に出てくる預言者とよく似ていると考えられます。バプテスマのヨハネは、特に預言者の中でもエリヤの再来と考えられていました(マタイ11:14)。
さて預言者エリヤもエリヤの再来と考えられたバプテスマのヨハネもその根本に据えていた主張は、「悔い改めよ」(2節、8節)と言うことです。今日は、このことが中心的テーマとなっています。
このことを考えていく前に、5節には「エルサレムとユダヤ全土とヨルダン付近の全部の人々」と誇張した表現が出てきます。まず最初に出てくる「エルサレム」とは高貴なかつ信仰のある町と考えられた「エルサレム」ではなく、正しくは原文では、「イエロソルーマ」となっています。この「イエロソルーマ」とは、(マタイ福音書では23:37を除けば後は全ての表現)、端的に言って7節に「まむしの子ら」と言われているユダヤ教のパリサイ派やサドカイ派と同じく神と敵対する町と言うことです。
さて神と敵対する「イエロソルーマ」やパリサイ派やサドカイ派に続いて5節に「ユダヤ全土」とか「ヨルダン付近の全部」が出てくる理由は、特に神と敵対するユダヤ人ばかりでなく凡そ人間たるものは全て「悔い改めよ」と言うことです。
このようにして6節では、バプテスマのヨハネの「悔い改めよ」の説教を聞いて、「全ての」人々は、悔い改めて、自分の罪を告白したとあります。6節の「悔い改めて自分の罪を告白する」とは、人の前ではなく、神の前で悔い改めることです。例えば、詩篇51:4
さて当時ユダヤ人は、9節に
とあるように最も信頼のおける人としてのアブラハムとか、さらには律法とか神に選ばれた高貴な町であるエルサレムなどを誇りとしてきました。このことは、今のわたしたちも同じだと思います。わたしたちは、お金とか、数の多さとか即ち量の法則など目に見えるものに信頼を置きやすいものです。
しかしこうして作ってきた誇るべき現代世界も、そして日本も、日本の貴重な財産だった信頼関係が崩れ始めています。例えば、日本建築技術者協会の会長(大越俊男氏)は、「家を買うにも、性悪説に立って行動するのが正しい。」と言及しています。
わたしたちはこうした中で今日の中心的テーマの「悔い改めよ」と言うみ言葉を聞きます。即ち神と敵対する当時のユダヤ人ばかりでなく、根本的には、人間は誰であってもそしてわたしたちも、ただ神のみ前で「自分の罪を告白し悔い改めよ。」のみ言葉を聞くのです。
今日のもう一つの中心的テーマは、9節後半です。
この9節後半で言いたいことは、神は、わたしたちを救いの道へと生かして下さる自由さをもっておられると言うことです。
歌手の矢沢永吉さんは、次のように言っています。「2年、3年、4年と倒れている。それもいい。仕方がない。しかしこのままじゃ終わらせない。すくっと立ち上がってやる。そうした煮えたぎる思いと怒りで生きてきた」と。ロ-マ書2:14には、端的には神を知らない人の中にも神のみこころを行う人がいるとありますが、矢沢永吉さんの言っていることは、とても大切なことだと思います。わたしたちも数は少ないかもしれないが、又、世のつくる法則の支配の中ですくっと立ち上がっていく。自分や自分たちの誇りをも捨てて、生きる神の前で悔い改めていく。
神は、又、主イエス・キリストは、わたしたちを悔い改めに導き、さあ荒涼の中にもすくっと立ち上がって行けと救いの道へと生かして下さる。―――このことが、今日のみ言葉で強調されていることです。
「主イエス・キリストの神よ。
主よ、わたしたちをただあなたのみ前で、悔い改めの道に導いて下さい。
この世のものや、見えるものや、自分の誇りを根拠とするのではなく、わたしたちをどんな時もすくっと立ち上がらせて
下さるただあなたとあなたの救いを、見上げさせて下さい。
主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」