2006年2月12日(降誕節第8主日)


エペソ人への手紙 6章18〜20節




『目をさまして福音に生きる』



  今週も、良き週でありますように。インフルエンザ等にも注意して健やかな一週でありますように。主の御祝福をお祈り致します。

  きょうは、エペソ6:18-20です。ここより主の御祝福を学びましょう。18節は、教会の課題が記されています。

「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」

ここから分かるように、教会の第一の課題は、「目をさましてうむことなく、すべての聖徒のために祈り続ける」ことです。ここで「すべての聖徒」とは、かつて主キリストの救いにあずかった者のことです。しかし今教会には、かつての「すべての聖徒」ばかりではなく自ら主キリシトの救いにあずかるために、「目をさましてうむことなく祈り続ける」課題があります。

  18節の「目をさまして」とは、断食徹夜祈祷会をする教会もありますが、その情熱は素晴らしいと思いますが、18節では文字通りのことではなくたとえです。即ちわたしたちが又教会が、エペソ3:18にあるような主キリストの救いの広さ、長さ、高さ、深さにあずかって、いまも歴史とわたしたちを主導し主宰し救い上げて下さってる主キリストの救いに目ざめていること―――このことが「目をさましてうむことがない」と言うことです。

  19節には、教会の第二の課題が記されています。

「また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜り、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。」

  即ち教会の第二の課題は、使徒(ここではパウロ)のために祈ることです。19節で注目したいのは、ただ「わたしが語るべき言葉を語る」ことができるために祈ってほしいと書かれてはいなくて、「わたしが口を開くとき語るべき言葉を語る」ことができるために祈ってほしいと、わざわざ「(わたしが)口を開くとき」と言う文がさしはさまれていることです。「口を開くとき」とは、エザキエル書3:27

「しかし、わたしがあなたと語るときは、あなたの口を開く。」

や詩篇51:15などから分かるように、預言者などが自分の言葉ではなく、神の御言葉と御救いを語ると言うことです。

 19節に戻りますと、使徒(パウロ)は何よりも「口を開くとき」は、神の送られた主キリストの救いの広さ、長さ、高さ、深さ即ちわたしたちに及ぶ主キリストの救いを語るもののことです。

  さてそうは言うものの使徒パウロは、19節で福音宣教のかどで鎖(獄中にある)につながれていました。こうしたいきさつの中でも使徒パウロは自分が「口を開くとき」は、何よりも他でもなく主キリストの救いの広さ、長さ、高さ、深さを語れるように祈ってほしいと教会に願うのです。

  19節と20節に出てくる「大胆に語れるように」の「大胆に」も同じ意味です。(「口を開くとき」と)。即ち「福音の奥義」(19節)は、奥の方に秘められたままのものであったりするのではなく、エペソ1:9にあるように

「御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。」

かつての聖徒にばかりではなく、今のわたしたちにはっきりと明らかに示されたものです。このことを即ち主キリストの救いの広さ、長さ、高さ、深さは、今わたしたちひとりひとりに及んでいることを、使徒は語っているのです。又わたしたちもこのことを、しっかりと今受け止めていきましょう。

  20節の「語るべき時には」の「べき」とは、どうしても語らなければならないことがあるとか、どうしても語らないわけにはいかないと言う意味です。即ち主キリストの救いは、どうしても真っ先に語らなければならないことだと言うことです。

  このようにして、わたしたちは今、わたしたちに及んでいる主キリストの救いに目をさましていると同時に、このことを口を開いて大胆に語る使徒のために祈るのであります。


お祈りを併せましょう。


   「主キリストを送られた神よ。

    わたしたちは、わたしたちに及ぶあなたのみ救い即ち主キリストの十字架のみ救いの広さ、長さ、高さ、深さに目をさまさせて下さい。又口を開いて大胆に主キリストのみ救いを、あますところなく語らせて下さい。わたしたちを日々の戦いの中で、この課題に生かして下さい。

主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。

アーメン。」