2006年1月1日(降誕節第2主日)
新しい年を迎え、主の御祝福をお祈り致します。
新しい年の初めを、エペソ5:30-33を通して主の御祝福を学び、新年の出発の時としましょう。
まず30節で目新しい言葉は、「肢体(えだ)」と言う言葉です。エペソ1:23の「教会(わたしたち)はキリストのからだ」と言うだけでなく、ここでは「わたしたちは、キリストのからだの肢体(えだ)」と言われます。30節の「肢体(えだ)」と言う言葉は、こことエペソ4:25だけに出てくる言葉で言わば、ここのためにとっておいた言葉です。即ち、30節の「肢体(えだ)」と言う言葉で言いたいことは、主キリストの御祝福と救いは、教会の「肢体(えだ)」であるわたしたちひとりひとりのところに届いていると言うことです。
わたしたちは、競争原理とお金儲け第一主義の世の中に生きています。この中では、わたしたちは、喜びや感性や知性さらには、人間性をも失いやすいのは、事実です。殺伐とした雰囲気の中で生きていくことにもなります。こうした中生きているわたしたちに、他の誰かではなく、又他の何かでもなく、ただ、主キリストが「肢体(えだ)」であるわたしたちひとりひとりのことに目を止め、救いの主としてご配慮して下さっている。このことを言いたいがために30節には、ここのためにとっておいた「肢体(えだ)」と言う言葉が用いられています。
さて、31節以下に進みましょう。31節は、5:11から始まる結婚(式)の祝福の文の一部です。結婚(式)が祝福の歩みであってほしいことは誰でもの願いです。31節も結婚(式)の祝福を語りつつ、しかし、31節はもう少し別なことに重点が移っています。31節の文尾は、「一体」と言う言葉で強調されています。
31節の強調される「一体」と言うことについて、さらに32節では説明が加えられています。
即ち、31節で強調された「一体」と言うことが32節では、大きい価値があることとされます(結婚以外に)。さらにわたしたちが大きい価値として取り上げるべき「一体」とは、結婚から重点を移して「キリストと教会のことをさしている」と言われています。
31節の「一体」と言う言葉と32節で言いたいことは、結婚(式)が一体となるべきこと、又祝福されるべきことは言うまでもないが、そのこと以上に大きい価値としての「一体」とは「キリストと教会」のことであると言うことです。即ち、31節の「一体」と32節で言いたいことは、主キリストが、教会の肢体(えだ)であるわたしたちひとりひとりのことを祝福し、救い、ご配慮下さっていると言うことです。
わたしたちには、緊張の続く日々があります。又人間のつくり出した競争原理とお金儲け第一主義の法則の中で生きていかなければなりません。こうした世の中では、わたしたちは自分の生きていることがとても小さくけちくさく見えてきます。
しかし、今わたしたちは、わたしたちひとりひとりのことに目を止め、「肢体(えだ)」としてのわたしをのびのびと育み育てて下さる救いの主イエス・キリストに目と止めたいのです。
このように、主キリストは新しい年も肢体(えだ)であるわたしたちひとりひとりを救いとご祝福をもって導いて下さるのです。
「主キリストよ。
新しい年もわたしたちひとりひとりは、あなたが祝福して下さる肢体(えだ)として、のびのびと大きく育てて下さるあなたのご祝福とみ救いに目を止めさせて下さい。
わたしたちは弱く小さなものです。あなたのご祝福とみ救いの大きさに生かして下さい。
主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン。」