2005年11月6日(降誕前第7主日)

エペソ人への手紙 5章14節




『キリストが照らす』



「眠っている者よ、起きなさい。

死人のなかから、立ち上がりなさい。

そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」。(エペソ書 5:14)

  今年もだいぶ残り少なくなってきました。良き日々でありますように、又主の祝福がありますことを心より祈っています。

  きょうは、エペソ書 5:14です。ここから今週のわたしたちが生きる糧とみ言葉を学びましょう。

  5:14は端的に言えば悔い改めの文です。即ち主キリストという光(=救い)に照らされて各々の罪を悔い改めていく。そして8-9節にあったように「光の子らしく、善と正義と真実の実」をつけるものとなっていく。このように主キリストの光と救いの下で悔い改めていくというのが14節です。

  さて、14節の「こう書いてある」とはイザヤ書 60:1他などの影響や反映が見られます。

「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。」(イザヤ書 60:1)

また14節は、動詞を先頭に出したきれいな3行詞となっています。

  まず「起きなさい」「立ち上がりなさい」の動詞についている呼びかけである「眠っている者よ」「死人」とは文字通りのことではなく比喩です。ギリシヤ世界では「眠っている者」又「死人」とは帰っていくべき天にあるふるさとを忘れた者のことでした。14節ではこの呼びかけはもう少し根本的な概念です。即ちこの世も帰っていくべきところを知らない悔い改めない世界と言うばかりでなく、この自分もこの世と付き合って悔い改めることなく深い眠りに落ち込み、沈み込んでいる者と言うことです。2:5には「罪過に死んでいた」とあり14節の「眠っている者」と同じことが言われています。

 ある看護士がこう言ってます。「うちの院長は、不機嫌になると下品な言葉を使ってはすぐゴミ箱や机をけとばします。もう我慢の限界です。どうしたらいいのでしょうか。」と言うもの。

  わたしたちもこのようなことはあります。即ち我慢の限界に達し、生きる喜びを失っていることも、14節の「眠っている者」と同じです。

  14節は、我慢の限界に達し、喜びを失っているような者にも呼びかけています。「起きなさい」(=目覚めなさい)。「立ち上がりなさい」と、強調します。

  さて14節のこの呼びかけは、誰かが目覚めさせてくれるのでも、立ち上がらせてくれるものではないことを、あらわしています。即ち、14節の3行目は、「キリストがあなたを照らすであろう」と言います。14節の文尾にある強調は、「キリストが」と言うことです。誰かでも、他の何かでもなく、ただ主キリストこそがわたしたちを目覚めさせ、立ち上がらせ、闇と我慢の限界に生きるような者を照らし、救い上げて下さると言うことです。

  わたしたちは、今このように主キリストの光と救いの下で悔い改め、目覚め、立ち上がっていきたいと願うものです。即ちわたしたちは苦しい羽目にも陥ったり、我慢の連続の日々にも出会います。しかしこの世とともに深い眠りに陥っていくのではなく、悔い改めて目覚めて主キリストの光と救いの下で立ち上がっていきましょう。「キリストがあなたを照らすであろう」(14節)。即ち誰かではなく、他の何かではなく、ただ主キリストがわたしたちを照らし救ってくださるのです。


お祈りを併せましょう。

   「主キリストよ。

    わたしたちに悔い改めの心をお与え下さい。

    わたしたちは、闇をつくり我慢も限界になるようなものです。

    ただあなたが、わたしたちを照らして下さることに目覚めさせて、立ち上がらせて下さい。

主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。

アーメン。」