2004年6月27日(聖霊降臨節第五主日)

ガラテヤ書 3章1〜5節



『主を信じる生き方へ』



  今週も、主の祝福がありますように。きょうは、ガラテヤ3:1-5です。1節は、「おお」で原文は始まっています。「おお」と言いますのは、素晴らしいことが起こっていたと言うことではありません。むしろ反対です。ガラテヤ教会(トルコ中央部)は、パウロが建てた教会ですが、そこにクリスチャンでありながら、主イエス・キリストの救い以外に、律法や割礼が救いになることを説く者たちが現れました。ガラテヤ教会は、このユダヤ主義的クリスチャンの活動に動かされていたのです。

  使徒パウロは、このことを「だれがあなたがたを惑わしたのか。」と言います。1節の「惑わす」とは、「魔法にかけられる」とか「悪魔的存在にとりつかれる」と言う意味です。使徒パウロは、律法や割礼にも救いを見い出そうとする立場をそのように言います。

  1節ではこれに対して、「十字架につけられたイエス・キリスト」のことが強調されています。ここで十字架とは、無惨なと言う意味ではありません。ここで「十字架につけられた」とわざわざ現在完了で記されているのは、この世の法則とか救いにもならない律法や割礼に頼ろうとするガラテヤ人やそしてわたしたちにもこのこと即ち「十字架につけられたイエス・キリスト」こそ今救いとせよと言うことです。

  「十字架につけられたイエス・キリスト」とは、律法とか割礼とか救いにならない道を古い生き方として主イエス・キリストが葬り去って下さったということです。2節では、「聞く」ことが強調されています。2節は、二者択一疑問文です。AかそれともBどちらをとるかとなっていますが、この文の意味合いは、AではなくBをということです。このBにあたるのが「聞く」ということです。この「聞く」とは、イザヤ書52:7以下にあるように、神のよきおとずれを―――人の説く又この世の法則しか知らないクリスチャンの説くものではなく――― 「聞く」と言うことです。

「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救いを告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。聞けよ、あなたの見張りびとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。」 イザヤ書 52:7-8(P.1020)

  さて、わたしたちの生きている世界は、根本的には雇用関係を主とし、時間と価値を量で測られる世界で生きています。即ち人間でありながら人間としては扱われず、一般商品と同じ扱いを受けているのが現実です。これを皆で同調一致してつくっているのが、現実です。教会も、商品経済の数の法則に動かされることも現実にはあります。

  こうしたことを、3節で使徒パウロは、「肉で仕上ている」と言っています。ガラテヤに入り込んできたユダヤ主義的キリスト教や、わたしたちの数の力のような法則を間違ったあり方であり古い生き方として退け、「十字架のイエス」を仰ぎ神の良きおとずれを聞くことを求めています。

  5節は、「あなたがたに御霊を賜い」となっています。この「賜う」と言う動詞は、3節では「御霊で始めた」と過去形なのに対して、現在形で記されています。それは、「・・・の上に又・・・のところに」御霊又神の救いが今届いていると言うことです。今、わたしたちのところに神の救い、主イエス・キリストの救いは届いているのです。


お祈りを併せましょう。

   「今週も救いを届けて下さる主イエスよ。

    数の力や時間や価値に縛られているのがわたしたちの現実です。ただ、十字架のあなたがこのような古いあり方を葬り去って下さり、今あなたの救いを聞く生き方へ進ませて下さいます。わたしたちは、難儀しています。クリスチャンと言いながらこの世の法則を救いとすることがあります。もの扱いしかされない現実に直面します。このようなわたしたちの上に、わたしたちのところに御霊とあなたの救いをもって導いて下さい。

主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。

アーメン。」