2004年6月13日(聖霊降臨節第三主日)

ガラテヤ書 2章17〜19節



『ただ主の側から』



  きょうは花の日です。主が、今週も明るく健やかな道に進ませて下さることを感謝しましょう。

  きょうは、ガラテヤ書2:17-19です。初めの17節は、分かりにくい箇所ですが、正しいと考えられる説明をしておきます。キリスト者とは、「キリストによって義とされることを求める」ものであるが、そのことによって、ユダヤ人の聖なる律法を無視する汚れた罪人となるのであろうか。又主イエスは、ユダヤ人の聖なる律法を無視する汚れた罪人といっしょくたのようなものなのだろうかと言うのが、17節の趣旨だと考えられます。

  さて、17節は、「キリストにあって義とされることを求める(「求める」は現在形)」わたしたちのことであります。即ち、わたしたちも、主イエスを今求めつつもなお汚れた罪人とされているのでしょうか。又主イエスは、聖なる律法を持たないただ汚れた罪人といっしょくたのような方なのでしょうか。17節には「断じてそうではない」と強い否定と共に18-19節では、それでは、わたしたちはどう言うものかが、語られるのです。

  18-19節で、まず注目したいのは、それまで「わたしたちは」と一人称複数で語られてきたものが、18節から「わたしは」と言う一人称単数に変わっていることです。この「わたしは」と言う意味は、ただこの手紙の著者である使徒パウロのことだけではありません。18-19節の「わたしは」とは、手短に言いますと、「人間ならだれであっても」と言う意味です(ローマ書7章の「わたしは」も同じ)。

  18節で言いたいことは、18節の「いったん打ちこわしたものを再び建てる」とは、2:11以下にあるペテロがユダヤ人の考える聖なる律法の戒めに立ち戻っていったことであって、そう言う立場を人間ならだれであっても、とるなと言うことです。

  19節は、18節の意味内容がより詳しく展開されます。ユダヤ人の言う聖なる律法の支配は終わったと言うのが19節です。

  わたしたちは、今「キリストにあって義を求めて(17節)」います。しかし、ただこの主イエス・キリストの義と救いのみ業のみに信頼するのではなく、この世の商品経済の法則も救いになるかのように今も考えがちになります。即ち、わたしたちは数の力に頼り、価値増殖の法則に励んでいるのが今の日本に生きるわたしたちの姿です。

  そう言う立場に立つのは、ちょうど2:11以下であのペテロが、福音と並んでユダヤ人の聖なる律法も救いになるかのように思いこんで、律法の戒めに立ち戻っていったことと質的には同じことでしょう。

  今わたしたちが、人間なら誰であっても立つべきところ、それは、主イエス・キリストの側から示して下さった救いと義をほかにしてありません。人間なら誰しも、そうだ、と言うのが、18節−19節の「わたしは」と言うことです。

  東京芸大の野見山暁治先生が次のように言っておられます。「もしかしたら、芸術はもう存在しないんじゃないかと思うこともあります。人間関係は希薄だし、生活は慌しい。みんな符丁だけで生きている。通りすがりにきれいなポスターがあれば、それでいいみたいな感じでしょう・・・・。」(平成11年6月22日付読売新聞)

  わたしたちは、正にそのような時代に即ち特に時間や一万円札をどれくらい多く稼ぐかと言う法則に量られ縛られて生きています。こうした中で、わたしたちは17節にあるように罪人として下に沈んでいいのでしょうか。主イエス・キリストも汚れた罪人のような方なのでしょうか。断じてそうではなく、主イエス・キリストは、人間のつくる法則を無効とし、主イエスの側から差し出して下さる救いと義の道を人間の誰でも今も示して下さっているのです。

  きょうは、花の日であり、わたしたちの誰であっても、主イエスの側から差し示された義と救いによって、今週も健やかにそして明るく主を見上げつつ、進んでいきたいと願うのです。このことを、きょうの箇所は、はっきりと示しているのです。


お祈りを併せましょう。

   義と救いの道を示して下さる主イエスよ。

   人間のつくる法則や掟に縛られて生きるわたしたちですが、ただあなたの義と救いのみを救いとさせて下さい。

   あなたは、わたしたちを汚れた罪人とされるのではなく、主の十字架において義とし、ご自分のみ救いに預からせて下さいました 。

   わたしたちを今、ただ、あなたにあって、あなたの救いと義を見上げて、今週も明るく健やかに、進ませて下さい。

主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。

アーメン。」