2003年9月7日(聖霊降臨節第十四主日)

ルカによる福音書 11章1〜2節



『我らが呼びかける方』



  きょうはルカ11:1-2a です。ここで強調されていることは、主イエスが祈ってお られることです。主イエスが祈っておられることは、他にも強調されています。(3:2 1 、6:12、9:28、22:32 、22:41 参照のこと)

  さて、主イエスが祈っておられることは、弟子たちが、ひいては、人間がこうす べきである、という倫理的側面を強調したものではありません。 1節の主イエスが祈 っておられることで言いたいことは、主イエスに天からの啓示が起こることであり、 主イエスが天から来て下さった救い主であるということです。

--『また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終わったとき、弟子のひとり が言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ること を教えてください」。』 (ルカ11:1)

  1節では、主イエスとバプテスマのヨハネとが並んで出てきます。しかし、この 二人には決定的な違いがありました。バプテスマのヨハネと言えば、『先生』 (ルカ 3:12) と呼ばれ、人気もありました。主イエスも、ヨハネについて、『女の産んだも のの中で最大 (ルカ7:38) 』と絶賛されました。しかし、 1節の主イエスの弟子のひ とりの質問は、主イエスとヨハネとでは、また、その教えの内容とでは違いがあるの ではないですか、と言う質問です。

  1節は、口語訳聖書のように『も』を『わたしたち』にかけるのではなく、『ヨ ハネ』にかけて、『ヨハネも』と訳した方がいいでしょう。つまり『ヨハネも』教え るには教えたが、しかし、ヨハネの教えと主イエスの教えとでは違いがあるのではな いか、と言うことです。

  主イエスとヨハネでは、祈りを重んじ、外見上は、同じようでありながら、しか し決定的とも言うべき違いがありました。

  即ち、主イエスの祈りは特に強調されていて、その中で示されたことは、主イエ スとは『地上のものではなく、天から来られ、天に上られる方である。』 (ルカ9:51 ) と言うことです。しかし、ヨハネとは、どんなに偉大であっても、救い主ではなく 、地上のものであり、地上に帰っていくものだと言うことです。

  さて、主イエスが、ヨハネとは異なり、地上のものではなく、天から来られた救 い主であることを、 1節ばかりではなく、主の祈り全体から学びましょう。主の祈り は、ユダヤ人がよくしていた信頼すべきものに対する、「アバ、父よ」と言う呼びか けから始まっています。主の祈りは、この呼びかけに続けて、神とは、み名もそのみ 国もあがめられるものとして、聖く高く、人間の世界から独立性の高いものとしてほ めたたえられています。

--『そこで (主イエス) は彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父 よ、御名があがめられますように。御国がきますように。」』 (ルカ11:2a)

  しかし、主の祈りは、 3節以下にある通り、三回『わたしたち』ということばが 出てきます。即ち、神は、あがめられる方ではあるが、また、そのみ名もみ国も、気 高いものであるが、わたしたちと全く関係ないものではなく、むしろ、わたしたちに 関与し、向き合うものだとされます。

--『「わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。わたしたちに負債のある ものを皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試み に会わせないでください」』。 (ルカ11:3-4)

  即ち、主の祈りに、ルカ11:3以下に、あらわされた主イエスとは、

--私達に、日ごとの食物を与え、

--私達を、負債から解き放ち、

--私達を、試みから救って下さる主

とされています。

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  日本人は、かつて、自分たちの生きていることを文にし、歌にしてきました。そ のひとつに万葉集があります。その中に、

『丈夫 (ますらお) と/思えるものを/太刀 (たち)はきて/かにはの田居 (たい) に/芹子 (せり) そ摘みける。』

という句があります。

  この意味は、心も体も立派だと思える男性が、それだけで立派なものを、わざわ ざ、自分をさらに立派だと思われようとしたのか、大きな刀をつけて、しかし、この 男性は立派だけれど、カニのように地面にはいつくばって、たぶん家族のためにでし ょうか、芹子 (せり) を摘んでいる、というものです。

  ここには、わたしたちの姿も描き出されています。わたしたちも、何としばしば 、カニのように地面にはいつくばって、生きることがあるのだろうかと思います。ち ょうど、わたしたちは、クリスマスの時に夜空にみ光を仰いだ羊飼いたちのようでも あります。

  きょうのルカ11:1-2a ばかりではなく、主の祈りの全体は、神は神の気高さをも ちながら、主イエスにおいて、そのみ救いとみ国が、わたしたちの所に来て下さった と言うことです。

  わたしたちの現実とは、また、この現代に生きるということは、正にカニのよう に、地面にはいつくばるようなものではないでしょうか。しかし、主イエスは、ここ にも、救い主として、み国とみ救いをもってきて下さったのです。すなわち、主イエ スは、わたしたちが、はいつくばる時にこそ、最も親しく呼びかけていい、わたした ちひとりひとりのために来られた救い主なのです。

  詩篇119:130 には、『みことばをうち開くれば、光を放つ』と主を讃えてありま す。主イエスは、わたしたちの所にみ国とみ光をもってきて下さったのです。今週も 、わたしたちは、主イエスとみ言葉とみ光を仰ぎつつ、歩いていきましょう。

  お祈りを併せましょう。

「わたしたちの所にみ国とみ光とをもたらして下さった主イエスよ。今週も、あなた のみ国とみ救いを仰ぎつつ進ませて下さい。

わたしたちは、はいつくばるような時があります。また、光を見失う時があります。

しかし、この時も、ただ、あなただけがわたしたちを立ち直らせ、み救いとみ光をも って、導いて下さることを感謝しつつ、今週も進ませて下さい。

主イエス・キリストによって、お祈り致します。」

  アーメン。