2003年1月19日(降誕節第四主日)

ルカ8章9-15節

『実を結ぶ信仰』

  今週も、ひとりひとりの上に、主の祝福がありますように祈ります。

  きょうは、ルカ8:9-15を通して、メッセージと祝福を得ましょう。ここは先週の 続きで、主イエスが種( たね) のたとえをわかりやすく説明をされたところです。

  弟子たちが、9 節で、種のたとえの意味を尋ねたのに対し、10節で主イエスは、 種のたとえを話した意図を明らかにされています。10節の「ほかの人たちは (主がた とえ話をしても) 見ても見えず、聞いても悟らない」とあるのは、1 世紀末ごろの教 会の状況を反映したものと考えられます。つまり、主イエスばかりか、教会も、たと えを用いたりして宣教活動に励むのだが、人々は受け入れませんでした。

  しかし、もともと、主イエスがたとえを用いて話され意図は、人々が受け入れな いためではなく、人々が受け入れ分かってもらうためでした。

  さて、主イエスは、たとえを用いて話されましたが、人々の受け止め方は、 4つ あったことは先週のところにも出てきました。ごく簡単にふれますと、主イエスがま かれる種とは、神の言葉のことです。この受け止め方の、

  第1 は、12節にあるように、道ばたに落ちた種で、道ばたの種は、悪魔に奪いと られるとあります。この種は、外部の強い力が、働いて全く育たないというのです。

  第2 は、13節にしるされているように、岩の上に落ちた種で、少しは育つが、や がては枯れていまうというのです。

  第3 は、14節にしるされていて、いばらの中に落ちた種で、ある程度は育つが、 実にまでには至らないというのです。

  育たない種が三つしるされている中で、きょうは14節に注目しましょう。いばら の中の種とは、いばらにもたとえられる「生活の心づかいや富や快楽」にふさがれて 、信仰の実にまで至らないということです。そして、このことは、わたしたちにも深 く関係することではないでしょうか。

  「生活の心づかい」とは、ルカ福音書10:41 では、せわしく立ち働くマルタに、 主イエスは、「思いわずらい」にとらわれていると言われたこととつながっています 。又ルカ福音書21:34 では「世のわずらい」ということともつながっています。つま り「生活の心づかい」とは自分にまとわりついて離れない、ひきずっていくようなこ とであります。とくに今の世の中で、将来の見通しがたちにくいことや不安もそうし たもののひとつでしょう。

  次の「富」とは、これもしばしば人間がとらわれやすい金銭や財産をふやしたい という欲望のことです。お金のためには、人を平気でだましたりするようなことは、 しばしばわたしたちが見聞することです。

  三番目の「快楽」とは、当時の享楽家として知られていたエピクロス派をさすと も言われています。しかし現代でも飽食時代の中で、TV番組では美食の特集番組がい かに多いかも含めて、わたしたちも毎日おいしいものを食べたいという欲望にも支配 されやすいのではないでしょうか。

  このようにして、「生活の心づかい」をはじめとして、「富」や「食」や他の様 々な欲望に支配されている中で、きょうはとくに15節に注目しましょう。

--『良い地に落ちたのは、御言葉を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守 り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』 (ルカ8:15)

  15節で強調されていることは「御言(みことば)を聞く」ということです。又「 御言 (みことば) 」という種をしっかり自分の内に保つということです。

  主イエスの御言葉とは、ルカ福音書19:44 では「神のおとずれの時」を語ったも のです。「神のおとずれの時」とは主イエスの言葉と業を通して、神の救いが、いま 、ここに、このわたしの上にもきているということです。このことを主イエスは、種 のたとえを通して、分からないように隠されたままにされたのではなく、わたしたち にはっきりと分かるようにされたのです。

  わたしたちも、「生活の心づかい」の中や見通しの立ちにくい中を生きています 。時には、引きずってしまう重い足取りになります。

  --そのとき、主イエスのまいて下さった御言葉を仰ぎ見ましょう。--

  いま、ここに、このわたしたちの上に「神のおとずれの時」、つまり神の救いの 時、祝福の時をもたらして下さっているのです。

  今週も、わたしたちが、豊かな祝福の実をつけるものとして、主イエスは導いて 下さっているのです。