2002年10月27日(聖霊降臨節第二十四主日)

ルカ6章39-42節

『真理と偽りの選択』

  今週も先週にまさる主の祝福がありますように。

  今週も幸い豊かな週でありますように。

  本日はルカ6:39-42 です。ここには、主イエスが弟子たちをつかわされる。そこに 自分たちが思ってもみなかった予想外のことが起こってくるが、そうしたことに惑わ されるな、と言うことが書かれています。

  39節の「イエスは『また』一つのたとえを語られた」の『また』とは『しかしまた 』ということばで、今までとは少し違うことを語るのでしっかり注意して聞いてほし いということです。

  ここのたとえに出てくる「盲人(は盲人の手引きができようか?)」の『盲人』と は、実際目の見えない人は人を導く能力がないということではありません。実際目の 見えない人で人をよく導ける人はたくさんいるでしょう。主イエスがここで「盲人」 と言われたのは41節の「自分の目に梁のあるもの」とつながっているように、実際、 目は見えていても人を間違って導くような、あるいは人を穴に陥れるような者のこと です。主イエスがこのようなたとえをされたのは、もとより弟子たちもそうなる可能 性がないとは言えないでしょう。が、ここでは弟子たちのことを、間違ってしまうも の、あるいは「目に梁があるもの」と言われているのではありません。弟子たちが当 時、人を誤って導くものの前で、意外なことが起こってきたと思って、たじろいで小 さく萎縮してしまって惑わされないように、ということです。

  目に梁があり人を誤って導くことは、40節にしるされています。ここに出てくる「 弟子は『その師』以上のものではない」の『その師』とは、いろいろな教師をさして いるのではなく、『救い主である主イエス』をさしています。つまり当時、さも自分 のことを完全ないし完全に近いものと考え、自分たちの説を,さも救い主である主イ エス以上のものと考えたものたちがいたようです。この様子は、ルカ福音書の続編の 使徒行伝20:28-32 からもうかがい知ることができます。使徒行伝20:28-32 は、エ ペソ教会の主だった人たちに、パウロが語ったものです。その中心的メッセ・ジは、 自分たちを救い主以上のものとしたり、その当時の支配的な思想や常識にしか従わな いものでもなくて、たえず主イエスを救い主と仰ぎつつ主の言(ことば)に立ち戻っ ていくものだといういことです。

--「今わたしは、主とその恵みの言(ことば)としてあなたがたをゆだねる。」--

(使徒行伝20:32)

 主イエスは弟子たちをつかわす。しかしそこには人を誤って導くもの、人の小さな ちりには気がつくが、つまりあら捜しはするが、自分の目に梁があることは認めない もの、又自分たちの説をさも救い主の言(ことば)以上の完全なものとするものがい る。こうしたことを前に、これは意外なことが起きた、と弟子たちが思って惑うこと がある。

  しかし、弟子たちは救い主イエス以上のものではなく、弟子たちは、救い主であり つかわして下さっている主イエスのみことばのみをいのちの糧として、生くべきであ ることを主イエスは教えられました。

  41節以下には二つの疑問文が出ていて、「#1なぜ兄弟の目にあるちりを見ながら、 自分の目にある梁は認めないのか。」「#2自分の目にある梁は見ないでいて、どうし て兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせて下さいと言えようか。 」これはかなり強調されたものですが、このことは、ただ当時の誤れる考え方だとい うばかりか、誰もが陥りやすいものでもありましょう。

  つまりここで主イエスは、当時の自分たちを救い主以上のもの、又完全なものとす るあまり、自分の大きな梁には気づかず、人の小さなちりに気づいては人を陥れる誤 れる道を退けられたばかりか、弟子たちも陥りやすい道によく注意を促しておられる のです。

  そして, わたしたちにも「目に大きな梁がある」ことを認めることは、自分にもは っきりとは見えないことや欠けがあるだけではありません。何よりも神との関係でわ たしたちが屋根を支えるために横たわっている梁のような大きな罪の力にとらえられ ていることを認めることです。そして、恵みの救いは自分たちの力によるのではなく 、ただただ主であられる神と主イエスの側からのみ、語られ、開かれていることを認 めることです。

  主のご計画とは罪の下にあるわたしたちを救う計画であって、わたしたち一人一人 をこの世界にただひとりしかいないものとして、愛し慈しみ育てる計画なのです。こ のことを主イエスはよく注意して聞いていてほしいと、きょう言われるのです。「た とい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れることはない。」( イザヤ書49:1)

  わたしたちは、惑うことがあるかもしれません。間違った考え方ではないかという ことに出会うこともあるかもしれません。しかしわたしたちを救い育てて下さる主と 、主のみことばとを、今週も仰いでいきましょう。