2002年9月15日(聖霊降臨節第十八主日)

ルカ6章20-21 節

『主の祝福される幸い』

  作家の吉本ばななさんは、妊娠してかなりひどいつわりがあり、24時間、船酔 いのようだったと言う。ここで知ったことは、現代人が自分の都合に合わせて、体を 使っていると言うことだった。例えば、「明日は休みだから、今日はつらいことをし ても頑張っておこう。」とか。

  このような時に、本日のメッセージから自分の生き方、体の使い方を見直しうる点が あったら見直して、良き生き方に反映させ、建て直していきたい。

  今日は4回(23節まで)「さいわい」という言葉が出ている。主イエスが目をあげ て「さいわい」を語られたのは『弟子たち』と言う、ひとつのグループであった。そ の弟子たちのありさまは、主として、『#1:貧しい』、『#2:飢えている』、『#3: 泣いている』、『#4:迫害にある』、という4つの側面を持っていた。『#4:迫害に ある』は22−23節で特に強調されているので、来週扱う。

  弟子たちは、#1、#2、#3、言うならば地上的困窮の中にあった。そして、そのことは 弟子たちばかりか、主イエスのありさまが、主イエスは神からつかわされたものであ ったにもかかわらず、王宮で生まれたのではなく、「飼い葉おけ」の中に生まれ、「 きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない 。」(ルカ9章58節)とあり、十字架まで極まったように、主イエスは神の僕とし て生きられたものであった。主イエスの弟子たちが、貧しく、飢え、泣いているとい うありさまは、主イエスの神の僕としてのありさまに参加、参与しならうものであっ た。

  主イエスが、神の僕としてつかわされた伝道の業に励まされたのと、同じ業に弟子た ちも励んだ時、そこにあらわれ出たのが、貧しさであり、飢えることであり、泣くと 言うことであった。

  ここに「貧しいものはさいわいである」の「貧しい」とは「飢える」「泣く」と並ん でいることからも分かるように、並程度の「貧しさ」ではない。赤貧洗うが如くとか 、全くの欠乏をあらわしている。

  そもそも、そのような貧しさそのものは、価値があるものではなく、また、ほめたた えるものではない。ではなぜ「さいわい」なのか。そこで原文に忠実な文語訳を採り 上げたい。文語訳では、はじめに「さいわいなるかな、貧しきもの」と「さいわい」 ということばが、強調されて出てくる。ここでさいわいなるかなと言うとすれば、ほ かでもない、この貧しさの中に生きた弟子たちの事だという強調文ともなりうるし、 ここでさいわいなるかなと言うとすれば、この貧しさの中に生きた弟子たちが必ずそ うなるのだ、という願いと約束を果たす文とも読める。

  ここで言っておきたいことは、「さいわい」とは何よりも神が贈りものとして送って 下さる賜物としての「さいわい」である。つまり神からつかわされ、神の僕として福 音を伝える主イエスと同じありさまで、その仕事、その使命に生きた時、そこに訪れ てきたのは並大抵ではない貧しさと飢えと泣くことではあったが、弟子たちはこの壁 にはばまれたのではなく、むしろこれらを突破して、主イエスにつかわされていった のである。すなわち、主イエスはご自分と同じく、枕することなく、貧しさの中にあ る弟子たちにむかって「さあ、さいわいに生きるのだ。神の国はあなたがたのものだ 。」と言われ、さらに「恐れるな、小さな群れよ。御国を下さることは、あなたがた の父のみこころである。」(ルカ12章32節)と言われている。

  わたしたちも立ち尽くすこと、しばしばであるかもしれない。あるいは又、詩篇40 篇17節にあるように「わたしは貧しくかつ乏しい」と地上の困窮と、欠けそのもの の自分をふり返るかもしれない。時間にふり回され、むなしくなるかもしれない。

  しかしここでわたしたちは主イエスと主の「さいわい」のことばを仰ぎたい。

−−主が贈って下さる御国と御いつくしみを仰ぎたい。−−

  さあ、今秋も御国を仰ぎながらさいわいに生きるのだ、と言われる主を賛美したい。

  主が、私たちを顧りみて下さり、さいわいな道を進ませて下さっていることを思い、 歩みを整えていこう。